桑のチカラ 第2回 桑と日本人の歴史・後編 ―現代にもつながる桑のチカラ―

桑は古代から日本人と強い関わりを持っていましたが、それに反してその薬効と万能性を知る者はごく少数しか存在しませんでした。(詳しくは「桑と人類の歴史・前編 ―古代から伝わる桑のチカラ―」をお読みください)そんな桑のチカラがどのようにして庶民へと広がっていったのか、そしてなぜ認知されなくなってしまったのか……歴史を紐解いていきましょう。

1.『喫茶養生記』は桑の本だった!?

鎌倉時代に開かれた臨済宗の僧侶として、歴史の教科書などで誰もが一度は耳にしたことがあるであろう栄西(明庵栄西、1141~1215)は、宋での修行を終え日本に帰る際に茶の種を入手し、それを肥前(現在の福岡県北部)で栽培したことで、それまで貴族の間でしか知られていなかった茶の文化を、武士や庶民に広めるきっかけを作った第一人者です。そんな栄西の著作『喫茶養生記』は、その名の通り喫茶の薬効について説いた上下2巻からなる書ですが、上巻のテーマが「茶の効用について」なのに対し、下巻のテーマはなんと「桑の効用について」であり、桑は茶の実と同レベルに扱われています。そのため後世、室町時代には「茶桑経」という名でも呼ばれていました。
余談ですが、「喫茶・喫茶店」という単語は意外にも日本だけでしか使われていません。喫茶の「喫」は「口に含む」という意味であり、茶を口に含む=喫む(飲む)から「喫茶」と呼ばれています。喫茶という単語が初めて使われたのはこの『喫茶養生記』だと言われています。また、現代の日本で「喫茶店」と聞くと、コーヒーを思い浮かべる方が多いでしょうが、その一方で中国では茶や軽食をいただく場所のことを「咖啡馆」と呼ぶことがあるそうです。

そして『喫茶養生記』には、「陰干しした桑の葉を粉末状にして茶のように飲めば、身も心も軽くなる」という記載が。――古代中国で「不老長寿の妙薬」と言われてから1000年以上の時を経て、ついに「桑の葉茶」という概念が日本に降り立ちました。
ちなみに、その他の内容を見てみると「煎じた桑はあらゆる病に効く」という古代から伝えられてきた薬としての桑の利用法が書かれているだけではなく、喉を潤し酒に酔わせなくする「桑粥」、逆に酒に入れることで長寿を保つことができる「桑の木屑」、加工して酒で服用することで病を防ぐ「桑の実」、さらには口に含むことで口内の病を癒す「桑楊枝」といった日常の生活に即した利用法も多く記載されていました。なかには「桑の木で枕を作れば悪夢を見ない」という何ともオカルト的な使用法まで紹介されていました。
みなさんは上記のような桑の利用法で気になったものはありましたか?個人的には桑の木の枕が気になりました。一体どんな寝心地なのでしょうね?

2.一番身近な万能薬? 桑の葉茶

栄西がもたらした喫茶文化は、はじめ同じ禅宗の僧や一部の武士に伝わり、そこから長い時間を経て徐々に広がっていきました。庶民に喫茶文化が伝わったのは室町時代の中頃、京都の東寺南大門前で庶民のために茶を点てて販売する「一服一銭」が始まりだと言われています。「一服一銭」とは、現代でいう所の茶屋に近いスタイルで茶を一杯一銭で販売する店でした。こうして茶というものに触れ、興味を持った庶民たちでしたが、当時は茶の木すら高級品でした。そのため彼らは茶の木の代わりに身近に生えている木々の葉を茶葉として利用することにしましたが、ここで皆さんに問題です。当時の庶民にとって最も身近な木は一体何だったでしょう?このコラムの前編を読んだ人には簡単な問題ですね。そうです、「桑」でした。弥生時代に中国から伝来した桑の葉を使用する養蚕技術は、以来庶民にとっての重要な収入源の一つになっており、この当時全国の至る所に桑畑が広がっていました。こうして『喫茶養生記』に遅れること約300年、偶然とはいえ「桑の葉茶」は庶民にまで知られ、そのチカラを誰もが享受できるようになったのです。
桑の木を育て、青々と生えた葉を蚕のために、そして残った葉を自分たちのために。仕事の終わり、一日の終わりに桑の葉茶を飲んでリラックス……そんなのどかな農村の一風景が浮かんできますね。

3.なぜ桑の葉茶は歴史から消えたのか?

しかしこれ以降、桑の葉茶についての文献が極端に少なくなりました。そして明治時代になるともはや桑の葉茶という存在自体が、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。一体どうしてなのでしょうか。その理由として、「煎茶」「養蚕」が考えられます。
「煎茶」とは、江戸時代に生まれた、現在の日本茶の主流となっているお茶のことです。煎茶の誕生とその広がりとともに、あくまで茶の代用として飲んでいた桑の葉茶の需要が薄くなったのではないかと思われます。事実、庶民が日常的に茶を飲むようになった大正時代、桑はまだ身近に生えていたにも関わらず、家庭の急須の中に入っていたのは桑の葉ではなく煎茶でした。
もう一つの理由である「養蚕」ですが、先程もお話した通り養蚕業はかつての日本の主流産業であり、特に江戸時代末期からは生糸が貿易品の中心となったことで、生産量を増やすために蚕を多く育てるために桑の葉が大量に必要になったために、桑の葉茶を飲む機会が少なくなったのではないかと思われます。加えてさらに第二次世界大戦後、これだけの隆盛を誇っていた養蚕業がナイロンなどの化学繊維業に取って代わられたことで、桑を育てる意味がなくなり、桑畑の数も急激に減少してしまいました。
茶の普及と桑の葉の需要拡大、そして養蚕業の衰退によって、桑の葉茶、それどころか桑そのものが日本人の記憶からほとんど消えてしまったのでした。これが現代の日本で桑の認知度が意外にも低い理由と考えられます。

4.繋がる桑の灯、そして再び……

とはいえ、桑の葉茶が完全に飲まれなくなったというわけではないです。というのも、先程「庶民が日常的に茶を飲むようになったのは大正時代」と言いましたが、裏を返せばそれまで庶民は茶を日常的に飲めなかったということであり、煎茶の流行から庶民への普及まではかなりの時間がかかったと考えられます。また、桑の葉の需要が高まったと言っても、その全てを使用していたわけではないと思われるので、頻度は少なくなったかもしれませんが、桑の葉茶は変わらず飲まれていたと考えることができます。歴史のスポットライトが煎茶、養蚕に当たっていたために桑の葉茶は存在感を失っていましたが、その灯はか細いながらも確実に続いていきました。

そして現在、桑はその万能性を再評価され始めています。元来持っている力は今までに話した通り凄まじいものを持っているため、もう一度日本人に認知されれば大きなブームを巻き起こす可能性だってあります。この先も桑から目が離せませんね。
ちなみに2004年から、耕作が放棄された地を桑畑として復活させる、現在では地方最大級の経営面積を誇る農園にまでなったプロジェクトがある地区で発足されましたが、その地区というのが滋賀県東近江市の永源寺地区であり、なんとあの栄西が開いた臨済宗の本山の一つである永源寺の周辺でした。鎌倉時代、桑のチカラを唱えた栄西の寺院の周りが、平成になって桑畑として復活する……時代を超えた何とも素敵なお話ですね。

5.まとめ

臨済宗の開祖・栄西によって喫茶の文化が徐々に浸透していくなかで、彼の著作『喫茶養生記』において茶と同等の扱いをされた桑は、同書で「桑の葉茶」という概念が持ち込まれ、ついに室町時代には喫茶というものを知った庶民たちにも愛用されるようになりました。しかし、茶葉の煎茶が普及し、養蚕業の需要拡大による桑の葉の大量消費によって次第に桑の葉茶は歴史からその名を消してしまい、敗戦後の養蚕業の斜陽化によって桑という存在さえも多くの人々の記憶から忘れられました。それでも、歴史の裏で愛され、飲み続けられた桑の葉茶は、未だ途上ではありますがそのチカラを再び評価されています。

2000年にもわたって日本人の生活を支えてきた桑。その再評価の声は日に日に大きくなっています。このコラムを読んだみなさんも、ブームに後から乗るのではなく、ブームの先駆けとして、桑の大いなるチカラを、その深い歴史を、一足早く身体中で感じてみませんか?

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